舞浜新聞

東京ディズニーリゾートなどのディズニーパークをはじめとして、ディズニーに関する様々な情報をお伝えします。



ディズニーランドを日本に呼んだ男たち

今では年間3,000万人近くの人々が訪れる東京ディズニーリゾート。言わずと知れた、日本一の入園者数を誇るテーマパークです。

 

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©Disney

 

実はこの東京ディズニーリゾート誕生の陰に、情熱を持った男たちがいたことをご存知でしょうか。今回の記事では夢と魔法の王国の建設に尽力した、男たちの物語をご紹介します。

 

浦安は「のどかな漁村」だった 

東京ディズニーリゾートがある浦安市は、元々はのどかな漁村でした。今の舞浜地区も、昔は遠浅の海が広がっていたのです。山本周五郎の『青べか物語』では、漁村の頃の浦安が描かれています。

 

青べか物語 (新潮文庫)

青べか物語 (新潮文庫)

 

 

海苔の養殖が盛んに行われていた浦安。しかし、高度経済成長期に、周辺の工場からの排水によって海は汚れていきました。

 

ちょうどその頃、三井不動産と京成電鉄を中心にして、浦安沖を埋め立てる計画が持ち上がります。三井不動産は住宅地の開発・分譲、京成電鉄は東陽町から浦安を経由して、千葉寺までを結ぶ湾岸新線を建設して、新たな運賃収入を稼ぐことを考えていました。

 

そんな浦安沖の埋め立て事業の会社として作られたのが「オリエンタルランド」でした。社名の由来は、埋め立て地に建設する遊園地の名称からでした。

 

ディズニーランドに出会った男 

当時のオリエンタルランドは名ばかりの会社でしたので、当時京成電鉄の社長を務めていた川崎千春が、オリエンタルランドの社長も兼務していました。

 

実はこの川崎こそ、「日本にディズニーランドを持って来よう」と考えた人物でした。

 

1958年1月、京成バラ園で販売するバラを買い付けるために、川崎はアメリカへと出かけました。そのときにカリフォルニア・アナハイムにあるディズニーランドに出会い、強い感銘を受けたのです。

 

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©Disney

 

「こんな素晴らしいものを、ぜひ日本の子どもたちにも見せたい」

 

そう考えた川崎は、なんとかして日本にディズニーランドが誘致できないか、模索を始めます。まだ浦安沖を埋め立てる前から、川崎は浦安にディズニーランドを造りたいと考えていました。

 

最大の壁は「漁民たち」 

浦安沖の埋め立て事業で一番の障害だったのが、漁民たちの漁業権放棄交渉でした。ただでさえ気性が荒い漁民たちの交渉を、誰に任せればよいのか。当時、三井不動産の社長を務めていた江戸英雄は悩みます。

 

そんなとき、白羽の矢が立ったのが、当時住宅会社の常務を務めていた高橋政知でした。

 

高橋は、東京銀行銀座支店と伊東屋の土地交換交渉のため、三井不動産で業務部長を務めていた江戸と出会います。

 

出会ってすぐに江戸は交渉を快諾。そんな潔さにほれ込んだ高橋は、江戸と酒を酌み交わす仲になります。そこで江戸は、高橋の酒豪ぶりを知ることになるのです。

 

高橋の父もかなりの酒豪として有名で、高橋は父から酒の手ほどきを受けていました。

 

江戸は高橋の酒の強さを買って、彼なら漁民交渉にうってつけだと直感します。江戸から交渉役を懇願された高橋は、しぶしぶ、その役を引き受けることに。浦安の町に高橋が乗り込んだのは、1961年夏のことでした。

 

高級料亭で豪遊三昧 

高橋は連日、都内の高級料亭で漁民たちを招いて大宴会を催しました。当時の大卒男子の初任給が月1万5千円ほどの時代に、1か月で70~80万円ほども飲み代に使うほどでした。漁民たちは上からではなく、自分たちをもてなしてくれる高橋にほれ込んでいきました。

 

川崎は高橋が持ってくる飲み代の領収書に、黙ってサインをしていきました。川崎も江戸と同様に、漁民たちをまとめ上げられるのは高橋しかいない、と考えていました。

 

一升瓶を持って、漁民たちの家を一軒一軒回る高橋。浦安沖を埋め立てて、ここに東洋一の遊園地を造る。だから漁業権の放棄をしてくれ。高橋は粘り強く交渉に当たります。

 

当初は3年かかるとみられていた交渉を、高橋はわずか半年でまとめ上げます。

 

後ろ盾を失う高橋 

1964年にオリエンタルランドは浦安沖の埋め立て工事に着手。1970年に最後の舞浜地区の工事が完了しました。いよいよディズニーランド誘致に向けて動こうとしていた矢先、1973年、日本をオイルショックが襲います。

 

当時上野に建設したばかりの京成デパートの売り上げも伸び悩み、川崎は京成電鉄に融資していた銀行団から、本業の鉄道業に専念するよう指示を受けます。結果的に、川崎はオリエンタルランドの社長を辞めざるをえませんでした。

 

また時を同じくして、江戸も三井不動産の社長職から降りることになります。ほぼ同時に支えを失った高橋は、川崎や江戸の思いを受け継ぐために、部下とともにディズニーランド誘致へと奔走することとなります。

 

ディズニーとの交渉と三井不動産 

オイルショックによる不景気のために「ディズニーランドは儲からない」と考えた三井不動産は、事業の縮小もやむをえないと考えていました。三井にとっては、東京から近い浦安の土地を住宅地として分譲するほうが、儲けが大きいと考えていたからです。

 

一方の高橋は1,700人以上の漁民に同意してもらい、海を埋め立てたという思いがありました。そんな漁民たちのためにも、何としてでもディズニーランドを浦安に持ってくる。そう強く考えていました。

 

権利関係に厳しいディズニーとの交渉は、並大抵のものではありませんでした。特にディズニーにとっては、当時フロリダ・オーランドで建設を進めていた「エプコット」が最優先であり、東京に資金を振り向ける余裕はありませんでした。

 

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ウォルト・ディズニーの置き土産とも言うべき「エプコット計画」東京ディズニーランド開園から半年前の1982年10月に開園している。©Disney

 

ディズニーはオリエンタルランドに対して、ライセンス契約によるフランチャイズのパーク運営、出資はしない、建設費は出さない、さらには長期にわたるロイヤリティーの支払いなど、かなり無茶な要求をしてきました。

 

これを受けて、三井不動産はついに、ディズニーとの交渉の打ち切りを決断。しかし、高橋はそんな親会社の三井の命令を無視して、独断でディズニーとの契約を結んでしまいます。

 

ディズニーとオリエンタルランドとの間で基本契約を取り交わしたのは、1979年4月30日のことでした。そのときの写真には、握手を交わす高橋とカードン・ウォーカー社長(当時)の間にミッキーマウスの姿が写っています。

 

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©Disney

 

いよいよ東京ディズニーランドが誕生へ 

ディズニーとの粘り強い交渉の末、東京ディズニーランドの建設工事は1980年12月に着工しました。当初1,000億円を予定していた総事業費は、みるみるうちに膨れ上がり、1,800億円にも上っていきました。しかし高橋は、顔色一つ変えることなく、現場のスタッフたちに檄を飛ばしました。

 

「いくら金がかかってもいい。『本物』を造ってくれ。造る以上はロサンゼルスやフロリダのものに勝るものでなくてはいけない」

 

1983年3月、建設工事は無事に終了し、竣工式が執り行われました。そして4月15日、小雨の降る中、東京ディズニーランドの「グランドオープニングセレモニー」が開催されました。高らかに開園宣言をする高橋。当時69歳でした。

 

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開園当日はあいにくの雨。そのため、セレモニーはワールドバザール内で行われた。©Disney

 

川崎がアメリカでディズニーランドに出会ってから、25年もの歳月が経っていました。当時オリエンタルランドの相談役に就いていた川崎は、感激のあまり涙ぐんでいました。

 

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酒とディズニーランド 

その後、高橋は東京ディズニーランドに次ぐ第2のパーク「東京ディズニーシー」をはじめとして、東京ディズニーリゾートの誕生に尽力します。しかし、確実に高橋の体は弱っていきました。

 

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建設中の東京ディズニーシー

 

1999年の年末には、建設中の現場を見て回っていたのですが、その後急速に体調が悪化。2000年1月31日、高橋は静かに息を引き取りました。酒とディズニーランドの86年間の生涯でした。

 

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ミッキーマウスとともに写る高橋政知 ©Disney

 

生前、高橋は周囲にこう語っていたと言います。

 

「ディズニーシーができたら、俺が一番乗りで酒を飲むんだ」

 

酒豪の高橋らしいエピソードですね。高橋の88回目の誕生日となるはずだった2001年9月4日、かつて海が広がっていた場所に、世界で唯一の海をテーマにしたディズニーパーク「東京ディズニーシー」が開園しました。

 

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©Disney

 

ディズニーランドを日本に呼んだ男たち

川崎がもし、アナハイムのディズニーランドを訪れていなかったら…。もし江戸が高橋を、浦安の漁民たちとの交渉役にしなかったら…。もし高橋がディズニーとの交渉を断念していたら…。舞浜には今とは全く違った風景が広がっていたかもしれません。

 

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1993年4月15日、開園10周年を記念して東京ディズニーランドの「アイスクリームコーン」のショーウインドウに「Office OF LEGENDARY CREATIONS」が掲げられました。日本語に訳すと「伝統的創造のオフィス」、創立者の名前には「MASATOMO TAKAHASHI」。隣には「夢を追い求め、実現した人」と記されています。

 

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©Disney

 

実は生前、高橋はアイスクリームをなめながら、よくパークを散策していました。そんな彼の姿から、ディズニーが後世に残る偉業をたたえるために、このショーウインドウを送ったのです。ディズニーパークに日本人の名前が刻まれるのは、これが初めてでした。

 

ショーウインドウはアイスクリームコーンからトイキングダム、そして現在はタウンセンター・ファッションの2階に場所が移されています。

 

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©Disney

 

参考文献

 

参考リンク