舞浜新聞

東京ディズニーリゾートなどのディズニーパークをはじめとして、ディズニーに関する様々な情報をお伝えします。



5周年記念特集 タイムスリップ!1983年の東京ディズニーランドに行ってみよう

2018年3月23日、舞浜新聞は誕生から5周年を迎えました。これもひとえに、日頃から愛読してくださる、読者の皆様のおかげだと思っています。本当にありがとうございます。

 

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さて、5周年を記念して、今回は時間旅行に出かけてみようと思います。これから読者のみなさんをお連れするのは、今から35年前の「1983年」東京ディズニーランドが開園した年です。NHKの朝ドラは、のちに国民的番組となる「おしん」。任天堂からファミコンが発売されたのもこの年です。

 

パソコンや携帯電話、インターネットもまだ身近ではなかった1983年、東京ディズニーランドが開園した当時は、どういった様子だったのでしょうか。一人の女性の視点から、見ていくことにしましょう。

 

新橋での出会い 

それは、松田聖子さんが、沖縄でのコンサート中に襲われるという事件が起きて、まだ間もない頃のお話。

 

都内の大学を卒業したばかりの私は、船橋の実家から、丸の内に本店がある銀行に通っていた。本店勤務の女子行員は珍しかったので、毎晩のように部長から「恭子ちゃん、今日も飲み行くぞ!」と誘われては、おじさんたちに付いて回る日々だった。

 

その日も、部長行きつけの飲み屋さんで、私と数人で飲むことになった。私がいそいそとお酌をして回っていると、同じ融資部の近衛さんが話しかけてきた。近衛さんといえば、私よりも3つ年上、同期入社組の中では出世候補で、ウチの部長もかわいがっていた。

 

それは「お休みの日の過ごし方」の話になったときだった。近衛さんが急に真剣な表情になって、私に聞いてきた。

 

「長谷川さんって、浦安のディズニーランドはもう行った?」

「いえ、行く相手もいないので…」

「ごめん!そういうつもりで聞いたんじゃないんだけど。それだったら、俺と一緒に行ってもらえないかな?半年で閉めるかもしれないから、一度は行ってみたいと思って…」

 

まさか近衛さんから、デートに誘われるとは思わなかった。相手は融資部のホープ、将来は出世コース。人望もあって、かっこよくて、何より仕事ができる男性から突然そう言われて、ドキドキしない女子なんていない。

 

 

テレビでCMをやってるのは見たことがあったけど、まだ行ったことはなかった。両親と出かけるような年ではなかったし、「遊園地=子どものもの」というイメージがあったからだ。

 

取引先の役員さんが「招待券をもらったから、行ってきたんだよ」と話していたのは聞いたことがあった。ディズニーランドって、どんなところなんだろう。近衛さんとなら行ってみたい。私は、二つ返事で彼の誘いを受けることにした。

 

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埋め立て地の中にある「夢と魔法の国」

待ち合わせは西船橋の駅前。今日はここから、営団の東西線に乗って浦安まで行く。

 

「ごめん!待った?」駅前で私を見つけた近衛さんが、慌てて走り寄ってくる。待ったのはこっちのせいだ。待ち合わせの時間よりも、30分早く来たのは私じゃないか。駅で切符を買い、改札の駅員さんに手渡す。当たり前のことなのに、近衛さんと一緒だとなんだかドキドキするのは、たぶん気のせいじゃない。

 

5月の休日。今日は日曜日。周りは家族連ればかりだ。8月からウチの銀行も、第2土曜日が休みになると言っていたけど、それよりも飛び石連休を何とかしてほしいよ。平日と祝日がころころ変わるのは、もううんざり。

 

浦安駅に着くと、ディズニーランドまではバスで行くそうだ。一生懸命に先を歩いてくれる近衛さん。いつもよりも、なんだかその背中が頼もしく見える。

 

駅の周りにはディズニーの商品を売っていたり、「ミッキー焼き」という、大判焼きみたいなものを売っていたりする店も多い。ディズニーランドができて、ここも人出が増えたんだろうな。船橋のヘルスセンターがあった場所にできた「ららぽーと」と一緒だ。

 

バスターミナルは、これからディズニーランドへ向かおうとする人たちで、にぎわっていた。運賃は先払いの200円。これにはびっくり。やっぱり高い。だって、営団の初乗りは100円だよ。バスは5分おきに出ていて、あまり待たなくてもすぐに乗ることができた。

 

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(写真提供:AGUI NET

 

多くの人を乗せて、バスはディズニーランドへと走り始めた。周りは何もない野原ばっかり。本当に、この先にディズニーランドなんてあるのかな?ちょっと不安になる。そういえば今度、浦安に大きな大学病院ができるってお父さんが言ってたっけ。

 

15分ほど走ると、バスターミナルに着いた。周りには駐車場と背の低い木ぐらいしかない。埋め立て地にあるとは聞いていたけれど、驚くほど殺風景な中に、東京ディズニーランドの入園口があった。

 

使う分だけ、ちぎって使う 

近衛さんと私は、まずチケット売り場へと向かった。彼が交通公社のお店で買っておいてくれた予約券を、「ビッグ10」というチケットに引き換えてもらうことに。それにしても一人3,700円はやっぱり高い。でも、近衛さんが出してくれたから、まあいいか。

 

ビッグ10は、入園券とアトラクション券がセットになっている。アトラクション券はAからEまで種類があり、使える乗り物が決まっている。券がなくなったら、園内にも売り場があるから買えるみたい。

 

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ゲートをくぐると、そこは本当に「夢と魔法の国」だった。今まで殺風景なところばかり通ってきたからかもしれないけど、いきなりアメリカにやって来たような、そんな気分だった。大屋根をくぐると、目の前には大きな真っ白なお城が立っていた。シンデレラのお城だそうだ。日本のお城とは全然違う。

 

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そこからは近衛さんの案内で、乗り物にたくさん乗ることにした。あとで聞いた話だけど、前の日の夜にガイドブックを見て、一生懸命に回る順番を考えてきてくれたらしい。どうりで初めての割には慣れていると思った。

 

スカイウェイで空のお散歩

イッツ・ア・スモールワールドの前にあるステージで「キッズ・オブ・ザ・キングダム」というショーを見たのだけど、音楽も素敵だし、踊りのレベルも高かった。スカイウェイからはディズニーランドを一望。ちょっとの時間だけど、近衛さんとの二人きりは緊張する。

 

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スペース・マウンテンは、本当に死ぬかと思った。真っ暗闇の中を、どこに連れていかれるか分からないのも怖かった。降りた後にフラフラになって、思わず近衛さんに泣きついてしまった。「東京ディズニーランド・パレード」も素敵だった。遊園地のパレードなのに、どこかやっぱりアメリカらしい。

 

ミート・ザ・ワールドには「アトラクション券が不要」と書いてあったので、せっかくだからと立ち寄る。それにしても、なんだかここだけ「ザ・日本!」というような感じ。

 

どうしてアメリカのディズニーランドなのに、ここだけ日本の乗り物なんだろう?出口には松下電器の未来の家も展示されているし、なんだか変な気持ちになった。万博じゃないんだから。そういえば「エターナル・シー」も、万博のパビリオンみたいだった。

 

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ブルーバイユー・レストランに感動! 

ここでご飯へ行くことに。「カリブの海賊」の横にレストランがあるそうで、そこへ。待合室から中に通されると、辺りは真っ暗。建物の中だけど、まるで夜の外のレストランに来たみたいな感覚になった。

 

メニューの値段は、遊園地のレストランとは思えないほど高くてビックリ。近衛さんの太っ腹さに、思わず感心してしまう。しかも料理はどれもおいしくて、それにもビックリ。遊園地なのにすごい。やっぱり値段のことはある。

 

レストランを出る前にお手洗いへ。それにしても「トイレ」「お手洗い」って書いてくれればいいのに、どうして「RESTROOM」なんて書いてあるんだろう?やっぱりアメリカだからなのかな?どうも慣れない。

 

レストランを出ると、私たちはまた乗り物を回り始めた。ジャングル・クルーズは、まるで本当のジャングルを旅しているみたい。動物も生きているように動くし、何より船長さんの話が面白い。マークトゥエイン号は大きな蒸気船で、こんなのが遊園地の乗り物というのが信じられないくらいだった。箱根の海賊船みたい。

 

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それにしても、園内はどこもきれいで、ごみ一つ落ちてないのはすごい。ごみ箱もたくさんあるけど、誰かがごみを落としても、すぐに係員さんが拾っていく。後楽園ゆうえんちなんて、地面にソフトクリーム落ちてたりするのに。

 

「ディズニーランドなんて、子どもだましでしょ」なんて思っていたのが、恥ずかしいくらい。私も近衛さんも、子どもの頃に戻った気分だった。

 

気が付くと、あたりはもうすっかり夕暮れだった。私と近衛さんは、お店に行ってお土産を買うことにした。色々な商品が並んでいる。私はポストカードとクッキーを、近衛さんは「記念になるから」とペナントを買っていた。

 

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お店はやっぱり多くの人で賑わっていた。こういうところは日本らしいと思う。紙袋を抱えている人や、ミッキーとミニーのショッピングバッグを持っている人も多い。ミッキーの耳の形をした帽子なんかは、本当に飛ぶように売れていた。

 

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帰る前に、母へ電話をかけることに。パークの中にも公衆電話があって、何人かが利用していた。小銭を持ち歩くのも面倒だし、そろそろテレホンカードを買ってみようかな。みんな使い始めているみたいだし。

 

夢から現実へ 

帰りはまた、浦安駅までバスに揺られる。車内は大混雑。さすがに私も近衛さんも、遊び疲れてヘトヘトだった。混雑した車内では、せっかく買ってもらった風船を割ってしまう子もいて、なんだか一気に現実に引き戻された、そんな感じだった。

 

浦安駅からは、また営団で西船橋まで。

 

「今日は一緒に行ってくれてありがとう。また今度、一緒に遊びに行かない?」

「ありがとうございました。もちろん、こちらこそ」

 

家まで送るという近衛さんの申し出をやんわり断ると、私は家まで歩き始めた。今日は楽しかったな。近衛さんとの時間が、終わらなきゃいいのに…。私はそんなことを考えながら、お土産を抱えていた。

 

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そんな初デートから35年。月日が経つのはあっという間だ。だって、私と娘夫婦と孫と、そしてミッキーマウスと一緒に写っているのが、その彼なのだから。東京ディズニーランドは変わらない。そして、ミッキーマウスも、私の最高のパートナーも。

 

「ねえ、おばあちゃんは、どうしてディズニーランドが好きなの?」

「ふふふ。ディズニーランドはね、おばあちゃんの思い出の場所だからだよ」  

 

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いかがだったでしょうか。1983年の開園当時のパークの様子を、一人の女性の視点から描いてみました。開園当時を知っている方には「懐かしい!」と思っていただけると思いますし、当時を知らない若い方も「へえ、35年前はそうだったんだ!」と反応していただけたら、うれしいです。

 

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開園当時のディズニーランドって、どんな様子だったの?

1983年の東京ディズニーランドの開園当時、JR京葉線はまだありませんでした。舞浜駅ができたのが1988年12月。それまでは東京駅から直通バスに乗るか、最寄り駅である営団地下鉄(現在の東京メトロ)の浦安駅からバスに乗るしかありませんでした。 

 

車で行っても大渋滞。バスがなかなか来なくて、浦安駅から歩いてパークまでやってくる人もいたそうです。キャストさんも、浦安駅からバスに乗ってやってきました。

 

そんな開園当時、舞浜駅も、イクスピアリも、ディズニーリゾートラインも何もありません。オフィシャルホテルとして最初にオープンした「サンルートプラザ東京」ですら、1986年7月、開園から3年後のことです。開園当時は駐車場と、まだ背の低い木がちらほらあるくらいの中にパークがありました。

 

今では信じられませんが、開園直後、当日券は平日のみ販売されていました。休日はあらかじめ、日本交通公社(現在のJTB)・日本旅行・近畿日本ツーリスト・東急観光の旅行代理店で「入場予約券」を購入して、それをパークのチケットブースで引き換えていました。予約券は3か月前から販売されていたんですよ。

 

さらに一日乗り放題のパスポートも平日限定、しかも夏休みなどの学校の長期休業期間中も使用不可でした。そのため、入園券とアトラクション券がセットになった「ビッグ10」を買って、乗りたいアトラクションと手持ちの券とにらめっこしながら、アトラクションに乗ったものです。もちろん、アトラクション券はちぎって、キャストさんに手渡していましたよ。

 

ちなみに残ったアトラクション券は有効期限などはなく、後日でも使えました。またアトラクション券がなくなったときには、パーク内に4か所あるチケットブースで買うこともできました。

 

そんなアトラクションの中で唯一、券不要だったのが「ミート・ザ・ワールド」でした。ここは松下電器産業(現在のパナソニック)の創始者である松下幸之助の強い意向で作られたという、企業色の強いアトラクションでした。ここだけ、なぜか日本を感じさせるアトラクションだったことを、覚えている人もいるかもしれません。

 

 

開園当時、ショップでは現在のようなビニール袋はなく、グッズはすべて紙袋に入れられていました。現在のものに変わったのは、東京ディズニーシーが開園した2001年以降のことです。有料のショッピングバッグは、開園当時から販売されていました。

 

パークに行ったことがある方なら「あれ?夜のパレード見ないで帰っちゃうの?」と思ったかもしれません。実は当時、遊園地は日没後に帰るのが当たり前な時代。初代エレクトリカルパレードが導入されたのは、開園から2年後の1985年3月のことです。ちなみに、打ち上げ花火は開園当時から行われています。

 

1983年、今からほんの35年前のこと。といっても、一人の人生が大きく変わる年月でもあります。2020年に向けて、大きく変わろうとしている東京ディズニーリゾート。舞浜新聞では、これからも変わりゆくパークの姿を見つめていきます。

 

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